御由緒

神話の国出雲地方を潤す神戸川の上流に祀られている延喜式内の古社であります。出雲國風土記によれば、須佐能袁命が「この国は小さい国であるがよい処なので、自分の名前は木石ではなく土地につける」と仰られ、御自ら御魂を鎮め置いた霊蹟であり、その御由緒の深遠な事は他に類を見ない須佐能袁命の御本社とも言えます。故に古くから朝廷をはじめ武将の崇敬は言うに及ばず世人の崇敬も篤く、延喜式神名帳に記載されており中世~近世には須佐大宮・出雲大宮・十三所大明神と称えられ、松平松江藩時代には一社一例国主守護之社として崇拝されていました。明治 5(1872) 年郷社に、同 6(1873) 年県社に、同 32(1899) 年国幣小社に列せられ、戦後は別表神社として今日に至っております。

須佐国造家 (大宮司家)
須佐能袁命が稲田比売命の御両親である足摩槌命・手摩槌命をこの須佐の宮地を護る稲田首 (いなだのおびと) とされました。その後、成務天皇 30(160) 年、第24代稲田宮主益成の時に国土開発に功ありし国津神の末裔であるということで須佐国造に任じられました。それより須佐国造出雲太郎某、須佐国造出雲次郎某を名乗っていたが、永享6(1434) 年、第59代国造孝時の時に出雲国造を憚って出の一字を除き、以後代々交代に国造雲太郎、国造雲治郎 (雲次郎) として今日まで連綿と続き、現当主は第79代須佐雲治郎建央氏である。尚、須佐の姓は明治の始めにつけたもので、それまでは須佐国造某と名乗るのを常としていました。

岩政信比古の説
『須佐之男命の社は出雲国内にも、余国にも数多あれど、真の本つ社は此社にぞ有りける。然るを世人これを知らずして杵築大社、或は素鵝社、又は京の祇園などを此の神の御社と謂えるぞ恨めしき。』
各種古文書に徴して、須佐能袁命の御本宮が須佐神社であることを証して余りあるものと考えさせられる説と思います。
※岩政 信比古(いわまさ さねひこ)
  岩国領新庄村(現、山口県柳井市新庄)の庄屋出身の江戸時代後期の国学者・歌人。
  本居宣長の直弟子である出雲の国学者 千家俊信に学ぶ。
  寛政2(1790)年~安政3(1856)年。